大判例

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最高裁判所大法廷 昭和50年(あ)15号 判決

主文

本件各上告を棄却する。

当審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(検察官の上告趣意について)

一所論は、原判決は、被告人が普通乗用自動車を運転して歩行者に傷害を負わせる交通事故を起こしながら、負傷者の救護もせず、事故を警察官に報告することもせず現場から逃走したといういわゆるひき逃げの事実について、道路交通法七二条一項前段に違反する各罪が観念的競合の関係にあるとした第一審判決を是認したものであつて、右は最高裁判昭和三七年(あ)第五〇二号所同三八年四月一七日大法廷判決・刑集一七巻三号二二九頁の判断に違反するものである。

たしかに、所論引用の判例は、車両等の運転者がいわゆるひき逃げをした場合において不救護、不報告の各罪は併合罪となる旨判示したものであつて、本件と事案を同じくすると認められるから、原判決は右判例と相反する判断をしたものといわなければならない。

二ところで、刑法五四条一項前段にいう一個の行為とは、法的評価をはなれ構成要件的観点を捨象した自然的観察のもとで行為者の動態が社会的見解上一個のものと評価される場合をいい(当裁判所昭和四七年(あ)第一八九六号同四九年五月二九日大法廷判決・刑集二八巻四号一一四頁参照)、不作為もここにいう動態に含まれる。

いま、道路交通法七二条一項前段、後段の義務及びこれらの義務に違反する不作為についてみると、右の二つの義務は、いずれも交通事故の際「直ちに」履行されるべきものとされており、運転者等が右二つの義務に違反して逃げ去るなどした場合は、社会生活上、しばしば、ひき逃げというひとつの社会的出来事として認められている。前記大法廷判決のいわゆる自然的観察、社会的見解のもとでは、このような場合において右各義務違反の不作為を別個の行為であるとすることは、格別の事情がないかぎり、是認しがたい見方であるというべきである。

したがつて、車両等の運転者等が一個の交通事故から生じた道路交通法七二条一項前段、後段の各義務を負う場合、これをいずれも履行する意思がなく、事故現場から立ち去るなどしたときは、他に特段の事情がないかぎり、右各義務違反の不作為は社会的見解上一個の動態と評価すべきものであり、右各義務違反の罪は刑法五四条一項前段の観念的競合の関係にあるものと解するのが、相当である。

三以上の判示によれば、第一審が適法に認定した事実関係には特段の事情も認められないから、第一審がこれにつき不救護、不報告の各罪の観念的競合を認め、原審がこれを是認したことは、結論において相当であつて、原判決は維持されるべきであり、所論引用の判例は以上の判示に反する限度において変更を免れないのであつて、所論は、結局、原判決破棄の理由とはならない。

(弁護人西村三瀦の上告趣意について)

所論は、事実誤認、単なる法令違反、量刑不当の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

(結論)

よつて、刑訴法四一〇条二項、四一四条、三九六条、一八一条一項本文により主文のとおり判決する。

この判決は検察官の上告趣意に関する判断について、裁判官下田武三、同岸盛一、同天野武一、同江里口清雄、同団藤重光の各補足意見、裁判官岡原昌男の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官下田武三の補足意見は、次のとおりである。

わたくしは、多数意見にくみするものであるが、ただ、多数意見が、本件との関連において、憲法三九条の規定に言及するところがないのを物足らなく感じるものであつて、一言その点に触れておきたいと考える。

わたくしは、刑法五四条一項前段の規定は、ある行為が「数個の罪名に触れ」る場合であつても、自然的観察、社会的見解のもとにおいてそれが一個の行為と認められる限り、処断上は、これを一罪として取り扱うべきことを定めたものと解する。ところで、所論引用の判例は、被告人の所為と同様の行為につき、救護義務と報告義務とはその義務の内容を異にし、運転者に対しては右の二つの義務が各別個、独立のものとして課せられていることを理由として、併合罪をもつてこれを処断すべきであるとしたものと解せられるところ、いま、本件における被告人の所為につき、しばらくこのような法的評価をはなれて、前構成要件的ななまの事実として自然にこれを観察し、通常の社会的見解のもとにこれを眺めるときは、その所為全体がひき逃げという単一の社会的事実に抱摂される一個の行為と認められるものであるから、このような場合にこそ、刑法五四条一項前段の規定を適用し当該行為を処断上の一罰として取り扱うのが相当であり、また、そのような取り扱いをすることが、ひいて、基本的人権擁護の趣旨に沿い、憲法三九条後段の法意にも適合するものと思料されるのである。

わたくしが、所論引用の判例を変更すべきものであるとする多数意見の結論に賛同する主な理由は、この最後の点に存するのであるが、この点に関しては、団藤裁判官が、その補足意見において、詳細に論述しておられるので、これに同調する。

裁判官岸盛一の補足意見は、次のとおりである。

私は、多数意見にくみするものであり、観念的競合についての私の見解は、古く大審院時代から現在に至るわが国の伝統的な判例を重視するものであつて、当裁判所昭和四九年五月二九日大法廷判決(以下、さきの判決という。)の補足意見で述べたとおりである。そして、このような判例の見解がそのまま本件の事案にも当てはまるものであることは、団藤裁判官の補足意見に述べられてあるとおりであるが、少しく私の意見を補足しておきたいと思う。

一  反対意見は、多数意見は不作為の行為性についてなんら説明するところがないと論難する。古くからいわれているように「不作為も行為である」といつてしまえばそれまでであるが、それでは説明にならないとの反論があるであろう。

およそ人間の行為は、社会生活における人間相互の関係として理解されなければならない。そのことは、積極的意識的な意思表動である作為についてばかりでなく、不作為についても同様である。例えば、過失は注意の欠如のため結果の発生を回避する態度にでなかつた点で不作為に共通するものがあり、また約束の期限が到来して借金を返済しないとか、そしらぬふりをして世間の義理を果たさないとかいう態度、即ち不作為に対しても、社会生活における人間相互の関係の場においては、それに人間の行為としての意味が認められるのである。刑法上不作為犯の構造に関して、作為と不作為とを同列において論じる立場と両者を全く対蹠的なものとして扱う立場とがあるが、不作為もまた、作為と同様に人間の意思の具体的実現である限り、人間相互の関係を契機として、社会生活における人間の行為として評価をうけるのである。即ち、行為は作為と不作為とを統合する上位概念であり、「不作為も行為である」という法的命題の根底には、右のような社会倫理的意識が強くはたらいているものと思われるのである。

二  つぎに反対意見は、刑法上の不作為とは、不作為そのものをいい、不作為の反面においてこれと同時に又はうらはらに併存する同一人の作為ないし動態ではないとされるが、そのこと自体は、いわゆる真正不作為犯にあつては、法の規定の形式上命令規範に違反する不作為そのものが構成要件であるという意味においてもとより異論はない。ところで、意思表動が積極的であるところの作為とそれが消極的である不作為との区別は、必ずしも身体的な動と静との区別に合致するものではなく、特定の対象に対する行為者の態度を視点として判断される相対的な観念である。例えば、読書中の者について読書を対象として見れば作為であり、散歩を対象として見れば不作為である。即ち、作為と不作為とは特定の対象との関係において不可分的に結合しているのであつて、構成要件的評価の対象となるのは、そのような構造をもつ社会的事実としての人の動態にほかならない。そのことは、本件のような車両の運転者が事故の現場から逃げ去つた場合でも同様であつて、逃げ去つたということを対象として見れば作為であるが、救護・報告をしなかつたことを対象として見れば不作為であり、両者は不可分に結びついた運転者の動態として、道路交通法七二条一項の構成要件的評価を受けるのである。評価の対象と対象の評価とを混同してはならないのある。なお、反対意見は、不作為の個数を識別する徴表は、義務不履行自体の中に見るべきであるというが、義務違反は不作為犯の構成要件該当性及び違法性を基礎づけるものであつて、行為としての不作為そのものの要素ではないのである。不作為と不作為犯との区別もまた、混同してはならないのである。

三  つぎに反対意見は、道路交通法七二条一項前段の救護義務と同項後段の報告義務とでは、作為義務がそれぞれ別個の行為を要求しているから不作為は複数であり、両罪は併合罪の関係にあるという。しかし、仮に反対意見がいうように、不作為が複数であるからといつて、つねにそれが併合罪を構成することになるものではない。外観上数個の行為があると見られる場合であつても、構成要件的評価以前の社会的事実の具体的状況のもとで、社会的見解上行為者の全動態を一個の事象として評価するのが相当な場合には、総合的に判断して行為の単一性を認めてよいのであつて、そのことは作為と不作為とで変りはないはずである(さきの判決における岡原裁判官の反対意見及び私の補足意見参照)。ただ、私は本件の事案については、右のような総合判断にまつまでもないと考えるのである。けだし、観念的競合の成立に必要な行為の時間的場所的同一性は物理的な観念ではないからである。そればかりでなく、前述のように、作為義務は、不作為犯の構成要件該当性及び違法性の問題であつて、観念的競合の成否とは関係がないのである。

四  要するに、多数意見と反対意見との違いは、観念的競合における行為の単一性を論じるに当たつて、わが国の判例がとつて来た伝統的な立場である自然的観察、社会的見解を出発点として、それを貫くか、ドイツの判例通説にならい構成要件的評価をも取入れるかの点にあるのであつて、理論的基盤を異にするドイツ流の理論を導入すべきでないことは、さきの判決の私の補足意見で述べたとおりである。多数意見の立場からすれば、観念的競合における行為の一個性の判断は、構成要件的評価以前の、社会的な現象界における事実認識の問題なのである。

裁判官天野武一の補足意見は、次のとおりである。

私は、裁判官岸盛一及び裁判官団藤重光の各補足意見に同調する。なお、最高裁昭和四六年(あ)第一五九〇号同四九年五月二九日大法廷判決・刑集二八巻四号一五一頁において述べた私の補足意見は、趣旨においてこれらと同一であるからここに引用する。また、さきに麻薬取締法違反及び関税法違反の各罪の成立を認めた事件の上告審において、私が両罪の観念的競合の関係に言及した意見も、同様の趣旨に出たものであることを付言する(昭和四九年(あ)第一四三一号同年一二月二〇日第三小法廷決定・裁判集一九四号四八七頁頁参照)。

裁判官江里口清雄の補足意見は、次のとおりである。

私は、裁判官岸盛一及び裁判官団藤重光の各補足意見に同調し、なお、少しく意見を補足したい。

反対意見は、道交法七二条一項前段の救護義務と同項後段の報告義務とでは作為義務がそれぞれ別個の行為を要求しているから、不作為は複数であり、両罪は併合罪の関係にあるという。作為義務が別個であるからこそ、その義務違反の不作為が二個の不作為としての法的評価を受け、二個の不作為犯が成立するのである。しかし、この二つの作為義務はいずれも交通事故の際「直ちに」履行されるべきものとされているから、この義務に違反する不作為は、構成要件的評価をはなれて社会的ななまの事実としてみるときは、時間的に場所的に一個の不作為であると解されるが、仮に各義務違反ごとに二個の不作為行為があるとしても、それはほとんど重り合つているのではあるまいか。

作為義務がそれぞれ別個の行為を要求しているときは不作為行為は複数であり、その不作為犯は併合罪の関係にあつて観念的競合を認めるべきでないとする理論を推しすすめるならば、真正不作為犯について異種類の観念的競合を全面的に否定しないまでも 作為犯にくらべて不当に制限することにもなりかねない。交通事故を起こし、救護義務も報告義務もつくさず現場に佇立していた者が、報告義務違反として刑罰を受けたのちに、更に救護義務違反として重ねて処罰される結果となつた場合に、そのような裁判、ないしはこれを許容する法解釈は、当該被告人にはもちろん、広く一般国民にも納得を得られないのではあるまいかという疑念を禁じ得ない。

裁判官団藤重光の補足意見は、次のとおりである。

わたくしは、多数意見に全面的に賛成する者であるが、岡原裁判官の反対意見にかんがみ、すこしばかり私見を述べて、多数意見を補足しておきたい。

(一)  わたくしも刑法理論において構成要件理論をとる者であり、罪数論についても構成要件を基礎に置いて考えている(団藤・刑法綱要・総論三三六頁以下)。したがつて、わたくしは、観念的競合も、数個の構成要件によつて評価されるものであるから、実質的には数罪であるが、ただ、狭義の併合罪とちがつて、これを構成する行為が一個であるために、処断上の一罪として取り扱われるものと解するのである。すなわち、狭義の併合罪と観念的競合とのちがいは、これを構成する行為が数個であるか一個であるかの点にある。そして、行為が一個であるか数個であるかを判定する基準は、構成要件そのものに求めることはできず、多数意見のいうとおり、つまりは、自然的観察・社会的見解に求めざるをえないとおもうのである。

(二)  刑法理論は価値論的・規範主義的な面に偏してはならないのであつて、同時に、事実的・存在論的なものに根をおろしたものでなければならない(団藤・前掲書六五頁、六六頁注三参照)。行為は構成要件的評価の対象となる事実であつて、行為論したがつて行為の個数の理論は前構成要件的なものである。構成要件該当性・違法性・有責性は事実に対する規範的評価であるが、これに対して、行為は、かような評価の対象となる事実の面に属する。したがつて、行為論は、性質上、自然的観察や社会的見解になじむのである。もともと、わたくしの学問的見解においては、行為は行為者人格の主体的現実化としての生(せい)の活動であつて、生物学的基礎と社会的基礎とをもつ(団藤・前掲書六七頁以下参照)。それは、まさしく行為者のダイナミツクス(動態)にほかならず、行為者の人格が一定の場において主体的に表動するものである。本件の多数意見、さかのぼれば、昭和四九年五月二九日に宣告された三つの大法廷判決の多数意見がいずれも、「一個の行為とは、法的評価をはなれ構成要件的観点を捨象した自然的観察のもとで、行為者の動態が社会的見解上一個のものとの評価を受ける場合をいう」としているのは、わたくしなりの理解においては、右のような私見に合致するのである。

(三) 右に述べたところは、作為犯にかぎらず、不作為犯についても同様に妥当する。いま、道路交通法七二条一項前段・後段の不救護罪・不報告罪を構成する行為を考えてみよう。それは、構成要件該当性という評価の面でとらえれば、まさしく「救護措置をしない」、「報告をしない」という構成要件的特徴を示す。ところが、当の行為をこうした構成要件的観点を捨象して観察すると、それは、事故現場に佇立している、現場から逃げ出す、等々の、なまの事実として現われる。佇立していたり、逃げ出したりで、救護もせず報告もしなかつたのであるから、「救護措置をしない」、「報告をしない」という構成要件的特徴を示す点に着眼してこれに構成要件的評価を加えれば、不救護罪・不報告罪に該当することになるが、構成要件的観点を捨象して、構成要件的評価の対象としてのなまの事実をみると、前構成要件的な行為そのものが目にうつるわけである。かようななまの行為は、岡原裁判官が多数意見に対する疑問点として指摘されるような「不作為の反面においてこれと同時に又はうらはらに併存する同一人の作為、行動あるいは状態」だけを指すものでないと同時に、かようなものをも当然に含んでいる。それは「不作為の反面」といつたものではなく、構成要件的評価においては不作為犯の特徴を示すところの、かような評価の対象となるなまの事実である。それは一定の法的作為義務の不履行といつた抽象的なものではなく、生(せい)の現実の一断片としての具体的な内実をもつたものなのである。われわれは、構成要件該当の事実が存在するばあいに、しばらく構成要件的観点を捨象し、このようななまの事実としての前構成要件的な行為そのものに着眼して、自然的観察・社会的見解のもとに、その個数を考えようとするのである。

ついでにいえば、自然的観察・社会的見解による以上、行為を一個とみるべきか数個とみるべきかは、結局、具体的事案に即して判断されることになる。ただ、不救護罪・不報告罪についていえば、ひき逃げのような形態の事案では(現場でいつまでも佇立していたような形態の事案でも同じことであろう。)、多数意見の説示するとおり、格別の事情がないかぎり、数価の行為とみることはできないとおもわれる。かような形態の事案では、「格別の事情」は、むしろ想像に困難なくらいであつて、しいて考えれば、救護措置を講じる意思なしに現場を立ち去つた行為者が、事故報告だけはしようとおもつて電話や警察署を探しているうちに、気持が変つて、電話や警察署の前を素通りして帰宅したといつたような設例をでも挙げることができようか。

(四)  併合罪とみるか観念的競合とみるかということは、実体法上の科刑の点かりでなく、訴訟法上、公訴の効力の範囲や既判力の範囲をはじめとして種々の点に影響を及ぼす。これについてはそれぞれの関係で精密な考察が必要であるが、実際問題としてとくに重要なのは既判力の範囲の関係であろう。そうして、この問題は、進んでは、憲法三九条のもつ意義と深い関連を有するものであることを忘れてはならない。同条後段の規定する「二重の危険」の妥当な範囲を画するためには、国民一般の健全な常識に訴えるべきである。一個の行為の範囲、したがつて観念的競合と併合罪との限界を定めるのに「自然的観察」や「社会的見解」を標準とすることは、そうした意味合いをももつであろう。かようにして、私見によれば、多数意見の見解は、憲法三九条後段の法意にも適合するものと考えられる。もとより憲法上の議論と刑法や刑事訴訟法の議論とは次元を異にするが、刑法や刑事訴訟法の問題を考察するにあたつても、つねに憲法の要請にこたえるように留意しなければならないことは当然である。

(五)  なお、一、二の点を付言しておきたい。前記大法廷判決および本件の多数意見が「法的評価をはなれ」といつているのは、「構成要件的観察を捨象」すること、つまり構成要件的評価といつたような刑法的評価をはなれることを意味する。いうまでもなく、一個の行為の範囲を不当にひろく解すれば、既判力の関係で、不当に処罰を免れる者が出て来るおそれがあると同時に、これを不当にせまく解すれば、被告人から憲法三九条後段の保障する「二重の危険」の禁止の利益を奪い去る結果になりかねない。これに妥当な限界を画することは、それじたいまさしく一種の法的な判断の問題であり、その意味では「法的評価をはなれ」ることはできないはずである。ただ、かような法的判断に形式的な規準をあたえることは至難であり、結局、「社会的見解」によりどころを求めるほかないのである。

ちなみに、学説の中に、「自然的な行為単一性」のほかに、数個の自然的行為が一つの構成要件によつて結合された「法的な行為単一性」をみとめるものがあるが、わたくしは、わが刑法における観念的競合を論じるのについて、このような観念を持ち出す必要はないと考えている。

裁判官岡原昌男の反対意見は、次のとおりである。

一  多数意見は、当裁判所昭和四九年五月二九日大法廷判決を引用し、その理論に基いて本件を観念的競合であると結論している。しかし、わたくしは、右の大法廷判決の考え方から当然に多数意見のような結論が出てくるものとは考えない。

二  思うに、刑法上の行為とは、不作為の場合においては不作為そのものをさし、不作為の反面においてこれと同時に又はうらはらに併合する同一人の作為ないし動態をいうものではない。一般に「何もしない」という事象は、それ自体のうちに個数ないし異同の識別の契機となる外的徴表をまつたくもたないのであるから、自然的に観察しても社会的に評価してもそのままでは罪数評価の対象とはなりえず、このような評価の対象として異同を識別され個数を認定されるべき不作為とは、「特定の義務に違反して作為をしない」動態ないし事象を意味するものとしなければならない。すなわち前記大法廷判決にいう「法的評価をはなれ構成要件的観点を捨象」しては考えられないことなのである。

然るに、多数意見は、道交法七二条一項前段の救護義務と同後段の報告義務とが、「いずれも交通事故の際「直ちに」履行されるべきものとされており、運転者等が右二つの義務に違反して逃げ去るなどした場合は、社会生活上、しばしば、ひき逃げというひとつの社会的出来事として認められている。前記大法廷判決のいわゆる自然的観察、社会的見解のもとでは、このような場合において右各義務違反の不作為を別個の行為であるとすることは、格別の事情がないかぎり、是認しがたい見方である。」とするのである。

三  ここでわたくしはいくつかの点について疑問を指摘しておかなければならない。

(1)  第一に、多数意見は、不作為犯の行為というものをどのように考えているのかまつたく説明するところがないとはいえ、わたくしがさきに摘記したところが多数意見の説明のすべてであるところからすれば、救護、報告の義務に違反して逃げ去る事実、ひき逃げという行為の事象を不作為の動態と観念し、これに焦点をあてて行為の単複を決しようとしているものというほかはない。しかし、観念的競合の成否について問題とされる行為とは不作為犯の場合においては不作為そのものをさすのであつて、不作為の反面においてこれと同時に又はうらはらに併存する同一人の作為、行動あるいは状態をいうのでないことは、いわば定説とされているところであり、ひき逃げ行為が本来の不作為の動態そのものではないということに気がついていないのではなかろうか。

(2)  第二に、直ちに救護及び報告をなすべき義務に違反して逃げ去るということを前提として不作為の個数を判断しているが、そうすると、それはその前提条件に当るか否か、すなわち、不作為行為について犯罪構成要件的考察をした上で、その前提条件を充たす場合に、あらためて不作為とうらはらに存在する動態を対象として、これを不作為の本体であり、不作為の動態そのものであるかの如く観念し、立論していることになるのである。それでもなおかつ、法的評価をはなれ構成要件的観点を捨象したといい得るのであろうか。

(3)  第三に、多数意見は、観念的競合の成立するためには、行為が同一時点同一場所において行なわれることを要するとする前記大法廷判決において強調された考え方にしたがい、不作為の行為もまた「直ちに」同時同所に成立することを要するものとするらしいのであるが、それは必ずしも必須の要件でないことはわたくしの既に前記大法廷判決の反対意見において述べたところである。しかも救護義務違反、報告義務違反の各犯罪は、救護と報告をなし得るのにこれをしなかつた時に各別に、すなわち、時と場所を異にしてそれぞれ別個に成立するのであつて、二つの義務不履行の不作為が同時に成立することとなるわけではない。

(4) 第四に、多数意見は、本件の如きいわゆるひき逃げ事犯に限定し、それを前提としてそのひき逃げを重視してこれを一個の社会事象と論ずるのであるが、交通事故を起こし救護も報告もせず、さりとて逃亡という積極的行為もなく現場に佇立している場合には、事故発生との場所的時間的な法的評価を度外視してその黙つて佇立しているという姿そのものに不作為犯の行為の単複を論じ得るなんらかの徴表、手がかりをつかむことができるであろうか。多数意見のいわゆる観念的競合にならない格別の事情とはいかなる場合を想定しているのであろうか、また、ひき逃げの形をとらない両義務不履行の不作為犯について不作為行為の個数を一般的にどう理解するのであろうか。

四 わたくしは、不作為犯の本質が行為者に課せられた一定の作為義務を履行しないことにあると考えるのであるから、不作為の行為それ自体は法的評価をはなれては考えられず、法的評価をはなれて見れば自然的観点からも社会的評価からもいわば無色であり、ただその不作為行為がある作為義務を履行しないという実質内容をもつているために不作為犯とされるのであつて、これを構成要件的に見るときは、刑罰法上要求される特定の義務を履行しないという構成要件を充たすために不作為が犯罪行為とされるのである。不作為犯の実質は、「法律上要求される何かをしない」ことであり、単に「何もしない」ということではなく、さりとて、「法律上要求されることをしないで別の何かをしている」ことでもない。不作為の個数を識別する徴表は義務不履行自体の中に見るべきであつて、その行為の単複は行為者に義務づけられた行為の単複によつて判断すべきであり、一個の行為で数個の義務を履行し得るのにこれを怠つた不作為は単一であるが(例えば同一日時における安全運転管理者の解任と選任―道交法一二一条一項九号の二、七四条の二第二項、同法施行規則九条の六)、作為義務がそれぞれ別個の行為を要求しているときは不作為行為は複数であると考える。多数意見からすれば、何もしないという行為者の動態の中には観念的にはあらゆる不作為が包含されうるものと考えざるを得ない結果、義務履行の始期、あるいは最終履行期を同じくする総ての不作為犯ひいては履行期を徒過した総ての不作為犯が観念的競合となりかねないのであろうが、その見方が甚だしく非常識であるとして、その動態の中に不作為行為の個数を識別するなんらかの手がかりをつかもうとすれば、いきおい、それは多数意見も述べるように、「直ちに」とか「義務に違反して逃げ去るなど」とかいうように義務違反の内容即ち構成要件該当性との関連における法的ないし社会的評価を加えるのでなければ不可能なことであると考えるのである。

五  これを道交法七二条一項前段の救護義務と同後段の報告義務とについて考えるのに、その両義務履行のために要求される行為内容は全然異なり、重要部分についての構成要件的重複もないのでこれを併合罪とすべきである。前記大法廷判決後に言渡された高等裁判所判決のうち、本件原審判決とは反対に、

(1)  右両犯罪は「性質上不作為形態を異にする」との理由でこれを併合罪とした東京高等裁判所昭和四九年(う)一六六五号同年一一月二一日(二刑)判決、

(2)  右両義務違反の行為は「いずれも不作為であるとはいえ、決して何もしないというのでなく、前者は救護をしない意思的態度、後者は報告をしない意思的態度であつて救護をする行為及び報告をする行為はそれぞれ行為の対象、方法を異にし、したがつて救護をしない態度、報告をしない態度もその時、場所を同一にする動態として現われるものではなく、社会見解上は別個の行為と評価される」とする東京高等裁判所昭和四九年(う)二一三二号同年一二月四日(三刑)判決(東京高裁時報二五巻一二号一一六頁)、

(3)  「不作為犯における行為は義務を履行しなかつたという不作為自体であるから、ある義務を履行しなかつた不作為とうらはらにされた行為が別の義務を履行しなかつた不作為とうらはらにされた行為とたとえ同一であつても、各義務の履行が一個の行為でなされる得る場合を除いては各義務を履行しなかつた各不作為間に同一性を認めることはできない」とした広島高等裁判所昭和四九年(う)二三〇号同五〇年三月一八日(一部)判決(広島高検速報昭和五〇年四号)、

(4)  「不作為犯の場合と異なり、行為者の動態を一個と評価すべきかどうかは、自然的観察のもとにおける社会的見解上からしても、単に何もしないということではなく、何をしないかという点で分別され、この面から行為の個数を評価すべきで、本件のように、右なすべきことの内容が異なるのは勿論、また右不作為の行態も具体的には時間的に一致しないわけで、右両者が刑法五四条一項前段所定の一個の行為とはとうてい評価しがたい」とした広島高等裁判所昭和四九年(う)二七〇号同五〇年四月三日(四部)判決(広島高検速報昭和五〇年六号)、は、何れも不作為行為ないし不作為犯の実体を正当に理解したものと評価し得るのであつて、前記大法廷判決の理論からして、直ちに本件多数意見のような結論を導き出し得ないことは疑いをいれないところと考える。

六  最後に、補足意見のうちに、道交法七二条一項前段、後段の二つの違反を併合罪とすることは憲法三九条後段の法意に反するかの如く説く部分があるが、これは何かの誤解であろう。もともと、同一犯罪につき二重の処罰を禁止することは、近代刑事法の一つの原則であり、憲法三九条後段の如き規定を欠いた旧憲法下においてもそのことは当然のこととされていたものであつて、刑法五条はその例外的場合の規定であり、旧刑訴三六三条一号、同三六四条四号(現刑訴三三七条一号、同三三八条三号)はその保障のための手続規定である。これは処断上の一罪についても同様とされ、その一部について実体的公訴権が行使された後は、残りの部分はもはや処罰されないとする原則をいうのであつて、ある数個の犯罪を処断上の一罪とするか併合罪とするかという問題とは、直接関係のないことがらである。憲法三九条後段は、ある数個の犯罪が観念的競合とされた以上は、既に実体的公訴権の行使された残りの部分を起訴処罰することは許されないということを意味するだけであつて、憲法にこの条文があるからといつて、なるべく観念的競合と見るのが憲法の精神に合致するということにはならず、また、逆に、例えば行政取締法規などにおいて、刑法五四条の適用排除を立法し、あるいは数個の犯罪を観念的競合にならないと解釈しても、違憲の疑いの生ずる余地は全くない。罪数問題は、立法政策ないし刑罰法規解釈の問題であつて、右の意味において憲法と直接の関係はないのである。

七  右のような次第で、本件を観念的競合とした原判決は、当裁判所昭和三七年(あ)五〇二号同三八年四月一七日大法廷判決(刑集一七巻三号二二九頁)に反し破棄を免れないものと思料する。

(藤林益三 岡原昌男 下田武三 岸盛一 天野武一 岸上康夫 江里口清雄 大塚喜一郎 高辻正己 吉田豊 団藤重光 本林譲 服部高顕 環昌一 栗本一夫)

検察官の上告趣意(昭和五〇年三月一七日付)

原判決は、道路交通法七二条一項前段所定の救護等の義務違反の罪と同条項後段所定の報告義務違反の罪との競合関係(いわゆる罪数)に関し、最高裁判所の判例と相反する判断をなした違法があり、破棄を免れない。

第一 一審判決及び原判決の要旨〈省略〉

第二 上告理由

一 本件救護等義務違反の罪と報告義務違反の罪とが観念的競合の関係にあると解する原判決の判断は、右両罪が併合罪の関係にあると判示した次の最高裁判所の判断と相反することが明白である。すなわち最高裁判所昭和三七年(あ)第五〇二号同三八年四月一七日大法廷判決(刑集一七巻三号二二九頁)は、「道路交通法は、道路における危険の防止と交通の安全、円滑を図ることを目的とするものであり、右目的達成のため、同法七二条は、その一項前段において、車両等の交通による人の死傷又は物の損壊の交通事故のあつたときの措置として当該車両等の運転者等は『直ちに車両等の運転を停止して、負傷者を救護し、道路における危険を防止する等必要な措置を講じなければならない。』と規定し、その後段において『この場合において、当該車両等の運転者は……警察官……に当該交通事故が発生した日時及び場所、当該交通事故における死傷者の数及び負傷者の負傷の程度並びに損壊した物及びその損壊の程度並びに当該交通事故について講じた措置を報告しなければならない。』と規定している。右規定の趣旨を前記道路交通法の目的に照らして考えると同条項前段は、交通事故があつた場合、事故発生に関係ある運転者等に対し、先ず応急の措置として救護等の措置を執るべきことを命じ、その後段は、この場合、すなわち、右前段にいう交通事故があつた場合において、人身の保護と交通の取締の責務を負う警察官をして、負傷者に対する万全の救護と交通秩序の回復に即時適切な処置を執らしめんがため、運転者等に右のような報告義務を課したものであつて、両者は、その窮極の目的を一にしながらもその義務の内容を異にし、運転者等に対し、各別個独立の義務を定めたものと解するのを相当とする。これがため、各義務違反に対する罰条も、前者に対しては同法一一七条、後者に対しては同法一一九条一項一〇号と各別に規定しているのであつて、要するに交通事故があつたときは、前記運転者等は救護等の措置と報告の措置の双方について、これが履行を義務づけられ、前者の義務を履行したからといつて、後者の義務を免れないのは勿論、前者の義務の履行を怠つた場合においても、後者の義務を免れず、これを怠るときは当然報告義務違反の罪が成立し、これと救護等の義務違反の罪とは併合罪の関係に立つものと解すべきである。」と判示し、救護等の義務と報告義務の各違反の罪は併合罪の関係にあることを明示しているのであつて、これを観念的競合の関係にあるとする原判決には、右最高裁判所の判例と相反する判断をした違法がある。

原判決は、その引用する前記最高裁判所昭和四九年五月二九日大法廷判決によつて、右最高裁判所昭和三八年四月一七日大法廷判決が実質的に変更されたものと解しているようにもうかがわれるのであるが、昭和三八年の右大法廷判決は、救護等の義務違反の罪と報告義務違反の罪といういずれも真正不作為犯相互の間における罪数問題について、それまでの下級審における論争に実務上終止符をうつ確立された判例というべきであつて、この確立された判例は、無免許運転と酒酔い運転といういずれも作為犯の罪数関係につき判示した昭和四九年の右大法廷判決によつて実質的にも変更されるべき性質のものではないのである。このことは右大法廷判決後においても両罪の関係を併合罪であるとする高等裁判所の判決が相次いでいることによつても明らかである。例えば、

1 東京高等裁判所昭和四九年(う)第九〇二号昭和四九年七月一〇日第五刑事部判決は、本件と同様のいわゆるひき逃げの事案につき「……、同法(道路交通法)第七二条第一項前段は、交通事故があつた場合、運転者らに対しまず応急の措置として救護等の措置をとるべきことを命じ、その後段は、この場合において、警察官をして負傷者に対する万全の救護と交通事故の回復等に即時適切な措置をとらしめるため運転者らに報告義務をかしたものであつて、両者はその窮極の目的を一にするけれどもその義務内容を異にし、両者が相俟つてはじめてその窮極の目的を達成するものとして各別独立の義務を定めたものと解するのを相当とする。従つて交通事故があつたとき、運転者らは救護等の措置と報告の措置の双方についてこれが履行を義務づけられておるものであつて、前者の義務の履行を怠つた場合においても後者の義務を免れず、これを怠つた場合当然報告義務違反罪が成立し、これと救護等の義務違反の罪とは併合罪の関係にたつものと解すべきものであり(最大法廷判決昭和三八年四月一七日、刑集一七巻三号二二九頁参照)」と判示し

2 同裁判所昭和四九年(う)第一二九二号昭和四九年九月二五日第一一刑事部判決は、右同様の事案につき、「……、救護義務違反の点は道路交通法第七二条第一項前段、第一一七条に、報告義務違反の点は同法第七二条第一項後段、第一一九条第一項第一〇号にそれぞれ該当する」としたうえ、「以上は刑法第四五条前段の併合罪である」と判示し

3 高松高等裁判所昭和四九年(う)第一七二号昭和四九年九月一八日第一部判決は、右同様の事案につき、「……、同第二の(一)の所為は、道路交通法七二条一項前段、一一七条に、同第二の(二)の所為は、同法七二条一項後段、一一九条一項一〇号にそれぞれ該当する」としたうえ、「以上は刑法四五条前段の併合罪である」と判示し

ているのであつて、右両罪の関係を併合罪とする一審判決をそのまま維持した高等裁判所の判決に至つては枚挙にいとまがない。

したがつて、原判決の判断は、まさに確立された判例に違反するものといわざるを得ないのである。

二、しかるに原判決は、前記昭和四九年の大法廷判決を引用し、「刑法五四条一項前段の規定は一個の行為が同時に数個の構成要件に該当し、数個の犯罪が競合して成立する場合に、これを科刑上の一罪とするもので、右にいう一個の行為とは、法的評価を離れ構成要件的観点を捨象した自然的観察のもとで、行為者の動態が社会的見解上一個のものとの評価を受ける場合をいうと解すべき」ものとしたうえ、「道路交通法七二条一項前段に定める救護等義務違反の罪と同条一項後段に定める報告義務違反の罪は、その義務の内容を異にし、それぞれ別個独立の作為義務を定めたものではある」ことを認めながら、「本件においては、被告人が原判示第一の人身事故を発生せしめたのに、何らの措置を講ずることなく事故現場を立ち去つたという一個の行為が、救護等の義務を定めた道路交通法七二条一項前段と報告義務を定めた同条一項後段の二個の作為義務規範に同時に触れるのであるから、その各義務の内容等の構成要件的観点および法的評価を離れた自然的観察によれば、本件被告人の所為は社会的見解上一個の行為と評価するのを相当とする。したがつて、右両罪が刑法五四条一項前段に定める観念的競合の関係にあるとした原判決に、所論のような法令解釈適用の誤りはな」い旨判示する。

しかしながら、原判決のこの見解は昭和四九年の大法廷判決の趣旨並びに本件各罪の本質を誤解し、その結果昭和三八年の大法廷判決に反する判断をするに至つたものといわざるを得ない。

原判決は、本件における不作為の動態として「何らの措置を講ずることなく事故現場を立ち去つた」ことを挙げているが、これは刑法的評価の対象たる被告人の行為の実体を見誤つたものである。

本件において、刑法的評価の対象たる被告人の行為の実体は、現場から逃走したことにあるのではなく、救護しなかつたことおよび報告しなかつたことにあるのである。たとえば現場を離れず佇立していたとしても救護義務違反も報告義務違反も成立することを考えれば、このことは明らかであろう。

本件のような真正不作為犯において重要なのは、逃走とか佇立といつたことではなく、救護をしない、報告をしないといつた不作為そのものなのである。逃走とか佇立といつたことは、本件では他行為にすぎない。

不作為そのものは、客観的外部的行動となつて表われるものではないので、刑法的評価の対象たる行為ではないというのが原判決の考えかも知れない。

しかし、これは余りにも素朴な考えである。救護しない、報告しないという被告人の行為は明らかに客観的な社会的存在なのである。

このように救護しない、報告しないということが社会的存在たる被告人の行為であるならば、両者は別個の行為であることは明らかであり、自然的に観察し社会的に評価してもこれを一個の行為ということはできない。

このように考えると、原判決は全く性質の異なる無免許運転と酒酔い運転とを観念的競合にあるとした昭和四九年の大法廷判決における自然的観察のもとにおける社会的見解上一個のものと評価し得る場合という原則を本件に無批判に適用し、昭和三八年の大法廷判決が右昭和四九年の大法廷判決により変更されたが如く誤解し、結局昭和三八年の大法廷判決に反する判断をしたものといわざるを得ないのである。

以上のとおりで、原判決には、最高裁判所の判例と相反する判断をした違法があるので本件上告に及んだ次第である。

弁護人の上告趣意〈省略〉

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